はりの木島番所

 いまから三百七十年も昔のことであります。

和田城主遠山土佐守は、徳川家康の命により、大阪方の落人を取りしまることになりました。

 そこで土佐守(とさのかみ)は、青崩峠のふもとと、天竜川の船つき場、みつしまに番所を建

てて、番人をおきました。 

 はりのきしま番所もはじめのうちは、落人に重点をおきましたが、世のなかがおさまるに

つれて、遠山谷から出る「くれ木」木材などの取り調べに当たるよう
になりました。

 ところが、この番所は天明七年(一七八七)に山くずれがあって埋まり、現在のところ

(宮下巌氏宅)にうつりました。

宮下さんが住んでいるところは、改造されておりますが、番所は昔のままです。

また、宮下さんのお話しによりますと、番所のほかに馬屋も当時の物だし、近くには、は

りのきしま番所の最後の番人だった遠山重内の身うち、遠山スミの
屋しきあとも残ってい

るとのことです。

 はりのきしま番所の番人は、代々重内を名のり、明治三年に番所が取りやめになるまで

続いておりました。

番所がはい止になったので、最後の番人だった重内は、この建物を県から払い下げてもらい、

ここに住んでいました。

ところが、前を流れる小嵐川が、大雨のためはんらんして、ひらいたばかりの田んぼが流れ

てしまいました。

 重内は生活がたちゆかなくなったので、妻の親せきをたよって、阿智村の駒ん場に出ました。

明治三十六年、重内は妻を相手に、みさか峠で茶店をひらきました。

重内はたくましいからだの男で、すでに六十の坂を越えていましたが、毎日とおくの谷川から

のみ水をくみあげ、大きなかまに湯をわかし、決して
旅の人たちに生水をのませなかったとい

います。

 そのくらいですから、旅の人たちのめんどうもよくみたし、病気になった人も多く助けたそ

うです。

番人からいっぱんの人になった重内は、「朝日屋」のおじさんと呼ばれて、茶店ははんじょう

しましたが、
六十八歳のとき、峠の茶店をたたんで、ひるがみ(智里村)におりました。

そしてまたここで新しく茶店をひらいて、余生をおくっておりましたが、大正十四年、重内は

八十一歳で亡くなりました。


 おつなの墓